なんと500名が自害!鎌倉時代のクーデター「霜月騒動」にまつわる陰謀論をひもとく! (2/5ページ)
一刻も早く安達泰盛を討ち、自身が政権を掌握したい。頼綱は力を蓄えて時機を待ち続けました。
霜月騒動の流れ・弘安8年(1285年)
そして11月17日。平頼綱は計画を決行、安達泰盛を討ち取ることに成功します。この時の様子を伝える唯一の史料がこちらです。
「奥州入道(おうしゅうにゅうどう)十七日巳剋(みのこく)マテハ松か上(まつがうえ)ニ住、其後(そののち)依世中動(よのなかのうごきによりて)、塔ノ辻(とうのつじ)ノ屋方(やかた)ヘ午時(うまのとき/ひるどき)ニ被出(でられ)けるニ、被参(まいられ)守殿(こうのとの)云々(うんぬん)、死者三十人、手ヲイ(手負)ハ十人計(ばかり)」
※東大寺僧凝念『梵網戒本疏日珠鈔』巻第三十 紙背文書より
【意訳】奥州入道こと安達泰盛は11月17日、朝10:00ごろまでは松谷(まつがや)の別荘にいた。しかし身の危険を感じたため、御所に近い塔ノ辻の別邸へ向かう。昼12:00ごろに到着すると、守殿こと平頼綱の襲撃を受け、泰盛はじめ約30名が討死。約10名が負傷した。
……同書「弘安八年十一月十七日鎌倉合戦自害者注文」によれば、これに続いて安達一門と安達派の御家人500名が自害しました。