なんと500名が自害!鎌倉時代のクーデター「霜月騒動」にまつわる陰謀論をひもとく! (4/5ページ)
日ごろから御家人たちの人望が厚かったため、頼綱を圧倒できたはずです。
そして何より当時鎌倉で合戦があったことを、当時の史料が伝えていました。
「関東合戦出(い)で来たり候て、城入道(泰盛)父子ともに打たれ候(さふら)い了(おは)んぬ。相州(貞時)逐電候由、今夜飛脚京都に到来と聞こえ候」
※『梵網戒本疏日珠鈔』の紙背文書・十一月二十一日書状
結果として安達泰盛父子が討たれたものの、執権である北条貞時が鎌倉から逐電(逃亡)してしまうほどの大混乱に陥ったというのです。
さすがに執権が鎌倉が逃げたのはデマ・誤解でしたが、安達泰盛が黙って討たれたのであれば、ここまでの事態には陥らなかったでしょう。
そして『鎌倉年代記裏書』には、将軍御所が炎上してしまった記録がありました。既に将軍と執権をおさえていた平頼綱が火を放つメリットはないため、安達勢の放った火が延焼したものと考えられます。
これらの史料等から、霜月騒動は暗殺事件よりも正規の合戦であった可能性が高いと言えるでしょう。
犠牲の大きな決戦を選んだ理由は?
ギリギリの死闘を制し、にっくき安達泰盛を滅ぼした平頼綱。