なんと500名が自害!鎌倉時代のクーデター「霜月騒動」にまつわる陰謀論をひもとく! (3/5ページ)
この一連が霜月騒動の顛末と言えます。
これだけ見ると、安達泰盛がどのような最期を遂げたのかがよく分かりません。
例えば軍記物語『北条九代記(きゅうだいき)』では、安達泰盛を武装した平頼綱の軍勢が待ち受け、暗殺したとしています。
しかし軍記物語の記述をそのまま史実ととらえるのは危うく(読み物や語り物としては、面白ければそれでいいのですが)、周辺史料から暗殺よりも正規戦(合戦)だったのではないかとする説もあるようです。
霜月騒動は暗殺ではなく合戦だった?
『門葉記』によると弘安8年(1285年)11月4日から、平頼綱は安達泰盛を討つ前に泰盛を調伏する(呪い殺す)祈祷を開始していました。
つまり平頼綱はやる気満々であり、その動きが洩れ聞こえないはずはありません。だから安達泰盛としても何の備えもせずにただ暗殺されてしまうのは不自然です。
合わせて前掲史料に「依世中動(せいちゅう/よのなかのうごきによりて)」とある通り、既に身の危険を感じていた泰盛が、移動に際して奇襲や暗殺への備えをしなかったとは考えにくいでしょう。
松谷から塔ノ辻へ向かう道のりは、若宮大路の下馬を回らなければならないとしても、およそ3キロ。急げば徒歩で20~30分ほどの道のりを、ゆっくり2時間(巳剋⇒午時)かけて移動したのは、軍勢を率いた示威行為と考えられます。
安達泰盛が軍勢を率いて移動したのは、平頼綱との決戦を前に味方を集めたかったのでしょう。