なんと500名が自害!鎌倉時代のクーデター「霜月騒動」にまつわる陰謀論をひもとく! (5/5ページ)
しかしなぜ暗殺ではなく、犠牲の大きい決戦を選んだのかは疑問が残ります。
恐らくは暗殺などの卑怯な手段で安達泰盛を排除した場合、御家人たちの支持が得られないと考えたのではないでしょうか。
そもそも安達泰盛が政権を握っていたのは、幕府再建という大義に基づきます。一方で平頼綱の行動(安達泰盛の粛清や政権掌握)は、自身の既得権益を確保するor取り戻す以上の理由を持ちませんでした。
だから将軍と執権を確保した上で、御家人たちの支持を何とか獲得。そして表向きは正々堂々と安達泰盛を謀叛人に仕立て上げ、決戦に臨んだものと考えられます。
そこに至るまで、有力御家人たちの支持をとりつけるなど様々な根回しや陰謀が巡らされたことでしょう。
終わりに・霜月騒動まとめ いつ? 弘安8年(1285年)11月17日に どこで? 鎌倉で 誰が? 平頼綱が 誰を? 安達泰盛を 何ゆえ? 政権奪取と既得権益確保のため どのように? 暗殺でなく、決戦を挑んで(諸説あり) どうした? 討伐した どうなった? 平頼綱が政権を握ったかくして安達泰盛に代わって政権を掌握した平頼綱。しかし執権・北条貞時が成長すれば政治的衝突は避けられません。
そして正応6年(1293年)に粛清されてしまったのでした。政権の座およそ8年、これが後世に伝わる平禅門(へいぜんもん)の乱です。
陰謀によって獲得した権力がいかに脆いものであるか、後世に重大な教訓を残す事件だったと言えるでしょう。
※参考文献:
呉座勇一『陰謀の日本中世史』角川新書、2018年4月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan