「べらぼう」なぜ蔦屋重三郎は江戸・日本橋への進出に憧れたのか?魚河岸が作った経済インフラの全貌 (7/9ページ)
18世紀以降の江戸には日本橋以外にも5組の魚問屋仲間がありました。しかし、生鮮魚と塩干魚の両方を取り扱ったのは日本橋の魚問屋だけで、江戸時代を通じて常に優越的立場を持つ最大の市場であったのです。
京都で発行された『江戸名所記』という実用的な江戸ガイドブックには、日本橋の混雑ぶりを次のように記しています。
「橋の下には魚舟などが数百艘も集まって、日ごとに市が立っている。~(中略)~朝から夕方まで橋の両側は一面にふさがり、押し合い揉み合い急きあって、立ち止まる事も出来ない。~(中略)~橋の下からは市の声、橋の上からは人の声、話の中身も聞き取れず、ただ、がやがやと、聞こえるばかりである。」
この江戸の名所記は、日本橋ができてからまだ半世紀しか経っていない寛文2(1662)年に出版されていますので、当初から日本橋がどれほど繁盛していたかが想像できるでしょう。
魚河岸を起点に江戸の諸方へ運ばれた魚介類江戸湾から日本橋川を上り、日本橋河岸に横付けされた押送り船から降ろされた魚介は、すぐに問屋の店先に並びます。そして、問屋から仲買に卸され、彼らは板舟と呼ばれる簡便な店舗で魚の販売を行いました。