幕末「安政の大獄」で尊王攘夷を貫き粛清された志士たちの過酷すぎる末路【前編】 (3/4ページ)
38歳の時藩主に海防策を提案したのが、藩政批判と捉えられたため藩籍を剥奪されてしまいます。
浪人となってからは、各地を遊説してまわり、尊王攘夷の指導者的な立場となっていきます。また、物産交易の仲介人としても成功し、志士たちを経済的に支え続けます。
しかし、日米修好通商条約反対や外国人排斥、一橋派の先駆けとして激しい幕政批判を行ったため、京都所司代に捕らえられます。江戸に移され、獄中で箒尻(ほうきじり)で何度も打たれるなど激しい拷問を受けましたそれでも彼は一切口を割らず、拷問による傷の悪化が原因で獄死しました。
死については、コレラにかかったとの説や毒殺説などさまざあな説があります。享年45歳。志を貫いた結果は、あまりにもむごい最期でした。
橋本左内
橋本左内は、福井藩で藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の右腕として奔走した早熟の天才でした。あまり知られていないのは、彼の生涯があまりにも短いものだったため。
16歳を迎えた時には、「池中の蛟竜(ちちゅうのこうりゅう)」と呼ばれます。「これから世にでるのを待たれる大きな才能」というような意味です。
彼は交際範囲が広く、藤田東湖(ふじたとうこ)、梅田雲浜、横井小楠(よこいしょうなん)らと通じ、特に西郷隆盛(さいごうたかもり)とは、影響を与えたと言っても過言でないほど親しい間柄でした。西郷は、死の直前まで橋本左内の手紙を大切にしていたと言われています。