裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【西軍編】 (5/7ページ)

Japaaan

また、信長から茶会を開く許可を貰っていたり、慶長3年(1598)に開かれた醍醐の花見では8番まであった茶屋の3番目を任されていたりと、茶人としての一面も持っています。

そんな祐忠は関ヶ原の戦いでは、2500人の兵と吉継近くの陣にいました。高虎の調略で内通していたので、秀秋が西軍を裏切ったことを契機に祐忠も西軍を離反。祐忠家臣が平塚為広を討ち取る功績を残ります。

しかし、裏切る意志を戦いの前に明確にしなかったことを家康に咎められ、死罪を言い渡されます。幸いなことに、東軍で功績を残した親族の一柳直盛の助けで、祐忠は死よりも軽い改易を言い渡されました

死罪という重い刑を言い渡されたのは、祐忠自身が素行が悪かったこと石田三成と親しい関係だったことがあげられます。その後は京都で隠居しました。

主家のための裏切りが仇に出た吉川広家

最後に紹介する人物は吉川広家です。

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