江戸時代、幕府公認で誕生した「吉原遊廓」――江戸最大の歓楽街、その始まりと栄枯盛衰 (3/4ページ)

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新吉原花園跡の御地蔵様

吉原の栄枯盛衰

こうして吉原の移転が決まりましたが、翌年に明暦の大火が起こり、吉原は灰燼に帰しました。

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しばらくは茶屋や町屋の建物を借りて営業を行ってから、ようやく日本堤で営業を再開。移転に際しては、着飾った遊女たちをひと目見るため、多くの見物人が集まったといいます。

日本堤は浅草聖天町と三ノ輪を結ぶ土手道で、吉原はその中ほどにありました。どこから行くにしても、最後は日本堤を通る必要があったので、いつしか「吉原通いの道」として知られるようになります。

『仕掛人藤枝梅安』の「春雪仕掛針」にも、「吉原の遊里は、山谷堀に沿って西へ行けば、すぐに手がとどく」という記述があります。

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