江戸時代の百姓一揆はなぜ“再び暴力化”したのか?「天明の飢饉」と田沼意次による改革の代償 (3/4ページ)

Japaaan

田沼意次(Wikipediaより)

独占的な商工業者の組合を株仲間として公認し、運上・冥加といった間接税を課すことで、幕府の収入源を確保しようとしたのです。

この政策によって、物流が活発化し、特に江戸・大坂などの大都市に向けて商品作物が多く出荷されるようになりました。

しかしその一方で、大都市の経済圏からはずれた村々は貧困化し、大都市へと人が流れてしまうなど、荒廃が進みました。

機能不全の「仁政」に喝

さらに一七八二年(天明二)から、天明の飢饉が起きます。このときの幕府の対応は、江戸を集中的に救おうとするものであり、地方の農村への対応は十分ではありませんでした。

これは前述した「仁政」のあり方とは異なるものでした。百姓を救済するはずの為政者が、その責務を果たさなかったことになります。

これらの要因によって、百姓一揆の作法の前提であった仁政イデオロギー自体が機能不全に陥ったのです。

こうして、百姓身分をアピールして仁政を求めるのとは異なる実力行使が、数少ないながらも起こりはじめたのでしょう。

ただし地域的な違いもあり、機内では強訴・打ちこわしなどの非合法な手段を用いず、訴願だけに徹していたケースも多くあります。

それとは対照的に、関東では百姓一揆の作法を大きく踏み外した非合法の行為が起こりはじめたのです。

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