【べらぼう】蔦重が世に送り出した東洲斎写楽のライバル・歌川豊国とは?気になる勝負の結果は… (2/4ページ)
本名は倉橋熊吉(くまきち)、のち熊右衛門(くまゑもん)と改名し、やがて一陽斎(いちようさい)と号します。
幼いころから歌川豊春(とよはる。歌川流創始者)に入門し、18歳となった天明6年(1786年)に処女作として絵暦「年始の男女」や「狂歌太郎冠者」の挿絵を発表しました。
天明8年(1788年)に黄表紙『苦者楽元〆(くは らくのもとじめ)』の挿絵を入れたあたりから絵師として本格始動。最晩年の文政7年(1824年)まで絵を描き続けます。
寛政2~3年(1790~1791年)ごろから和泉屋市兵衛(いずみや いちべゑ)のもとで美人画を手がけ、豊春風から鳥居清長(とりい きよなが)や喜多川歌麿の画風を採りこんで独自の画風を確立していきました。
それから「役者舞台之姿絵」はじめ多くの作品を世に描き出し、時代の好みを巧みにとらえることで、役者絵や芝居絵を独占する権威となったのです。
家族は妻と一男一女がおり、放蕩息子の直次郎(なおじろう)は勘当されて版木の彫師となりましたが、父の没後に浮世絵師・歌川豊年(とよとし)として活動しました。
また娘のきんは女流浮世絵師・歌川国花女(くにかめ)として活動しています。
そして文政8年(1825年)1月7日、豊国は57歳で世を去ったのでした。
写楽と豊国、勝負の結果は……?浮世絵界に大きな影響を与えた写楽と豊国。勝負の軍配は、豊国に上がったと言えるでしょう。
役者などのモデルを理想化し、洗練されたスタイルで描き上げた豊国。対する写楽は、良くも悪くもリアリティ重視&個性を強調するスタイルだったのです。