【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ… (5/9ページ)

Japaaan

蔦重と疎遠に

喜多川歌麿「行水」

そんな中、寛政3年(1791年)に蔦重と山東京伝(さんとう きょうでん。北尾政演)が筆禍事件に巻き込まれました。

※ご禁制の好色本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)』『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかい にしきのうら)』を教訓読本として出版した罪に問われています。なお作者の京伝は手鎖50日に。

身上半減(全財産の半分を没収)という大打撃を受けた蔦重は、黄表紙などを扱う地本問屋から、お堅い書物問屋として経営方針を変更していきます。

一方歌麿はなおも抵抗を続ける気だったのか、蔦重とは次第に疎遠となってしまいました。

ますます名声が高まる中で和泉屋・上村屋・近江屋など多くの版元から依頼が舞い込み、退廃的な官能美を追求していったのです。

ただ美しいだけでなく、あえて醜さや猥雑さを忍ばせることで、モデルの魅了をより引き出したのでした。

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