【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ… (7/9ページ)
寛政9年(1797年)に蔦重が世を去っても、歌麿の勢いは衰えを知りませんでした。
しかし40を超える板元と契約していた歌麿は、次から次へと描かねばならなかったことから、粗製濫造で画風に衰えが見えてきます。
美人画は背が高く、下ぶくれの顔とパターン化されてきましたが、これは規制逃れの意味もあったとか。
しかし文化元年(1804年)、大判三枚続の「太閤五妻洛東遊観之図」を描いたことで、歌麿は手鎖50日の刑に処せられてしまいます。
実は戦国時代後期(天正年間。1573年〜)以降の人物を描くことが禁じられていたのでした(絵草紙取締令)。
歌麿が描いたのは、醍醐の花見。豊臣秀吉が自らの栄華を謳歌する場面です。
手鎖の刑は心身にこたえたらしく、これ以降歌麿は病気がちになってしまいました。
歌麿の病状は悪化の一途をたどり、もはや回復の見込みがないと分かるや、板元たちは今の内とばかり歌麿に浮世絵を依頼します。まったく彼らは鬼なんじゃないでしょうか。
そして文化3年(1806年)に世を去りました。
墓所は世田谷区の専光寺(当時は浅草新堀端菊屋西側)にあり、戒名を秋円了教信士(しゅうえんりょうきょうしんし)と言います。
