【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ… (6/9ページ)

Japaaan

浮世絵の権威に

喜多川歌麿「当時三美人」。上が富本豊雛、左が高島屋おひさ、右が難波屋おきた。

遊女や花魁、茶屋の娘など、歌麿のモデルとなった女性はたちまち人気が高まりったと言います。

そんな歌麿ブームに対して、当局は寛政5年(1793年)に「評判娘の名前を錦絵に記すべからず」と禁令を出しました。

すると歌麿は規制に対抗しようと、名前を判じ絵(絵解き)にした「高名美人六家撰(こうめいびじんろっかせん)」をリリースします。

しかしそんな手がいつまでも通用するはずもなく、寛政8年(1796年)に削除を命じられてしまいました。

そんなことがあっても、歌麿は挫けることなくブランドを確立。

揃物の判じ絵「五人美人愛敬競(ごにんびじん あいきょうくらべ。寛政7〜8・1795〜1796年ごろ)」に「ひきうつしなし自力絵師(誰かの真似でなく、自らの画風を確立した本物の絵師)」と記します。

加えて「自成一家(自ら一家≒一流派を成す)」印を使用。また「正銘歌麿(本物の歌麿)」と落款しました。

また下描きにも偽造防止の「本家」印を捺すほど人気があり、まさに美人画の一時代を築き上げたと言えるでしょう。

「【べらぼう】喜多川歌麿(染谷将太)の生涯——浮世絵の権威から蔦重との別れ、画力・心身ともに衰弱へ…」のページです。デイリーニュースオンラインは、理清信女喜多川千代女べらぼう蔦屋重三郎喜多川歌麿カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る