【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う (2/6ページ)

Japaaan

幼くして家族と別離

わずか10歳で滝沢家を背負わされ、苦労が絶えない瑣吉(イメージ)

滝沢瑣吉は明和4年(1767年)6月9日、滝沢運兵衛興義(うんべゑおきよし)と門(かど)夫妻の三男として、江戸深川(江東区)で生まれました。

幼名は滝沢春蔵(しゅんぞう)、後に滝沢倉蔵(くらぞう)と改めます。

滝沢家は旗本の松平信成(まつだいら のぶなり)に仕え、兄弟には長兄の滝沢興旨(おきむね)・次兄の滝沢興春(おきはる)・妹のお蘭とお菊がいました。

幼少期から絵草紙や俳句といった文芸に親しみ、7歳で句を詠んだと言います。早くも文豪となる素養を深めていたのでした。

しかし安永4年(1775年)、9歳の時に父を亡くしたことで運命が暗転します。

長兄の興旨(当時17歳)が家督を継ぎましたが、主君から家禄を大きく削られてしまいました。

興旨はこれを不満として主家を去り、次兄の興春は既に他家へ養子となっていたため、安永5年(1776年)にわずか10歳の瑣吉に家督を継がせたのです。

そればかりか、母と妹たちも揃って長兄について行ったため、滝沢家には瑣吉がたった一人で取り残された形になりました。

まったくひどい話ですが、もはや瑣吉一人が食べていくのがやっとなまでに家禄を削られてしまったのかも知れませんね。

かくして家督を押しつけられ……もとい継いだ瑣吉は主君の孫である松平八十五郎(やそごろう)に仕えました。

しかし八十五郎は癇癪持ちだったらしく、それに耐えかねて安永9年(1780年)にとうとう出奔。約4年間、よく耐え忍びましたね。

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