【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う (5/6ページ)
そんな瑣吉が蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)と出会ったのは寛政4年(1792年)。京伝の紹介で、蔦屋の手代として雇われることになります。
この時、武士が商人に仕えることを恥じ入った瑣吉は、武士の身分を捨てました。
名前を興邦から解(とく/とくる)と改め、通称も左七郎から瑣吉とします。
※滝沢瑣吉という名前は、この時から名乗りました。
結婚そして更なる飛躍へ
自ら武士の身分を解除して、新たな人生を歩み始めた瑣吉に縁談が舞い込んだのは、27歳となった寛政5年(1793年)。
蔦重や京伝の勧めで履物屋「伊勢屋」を営んでいた未亡人・会田百(あいだ もも/ひゃく)と結婚しました。
生活のためもあって婿入りしたものの会田姓は名乗らず、滝沢清右衛門(せいゑもん)と名乗っています。
彼女との間には合計一男三女を授かるも家業には熱が入らず、寛政7年(1795年)に義母が亡くなると、待ってましたとばかり履物屋を廃業。噺本や黄表紙の執筆を本格始動したのでした。
そして30歳を迎えた寛政8年(1796年)、蔦屋から出世作となる『高尾船字文(たかおせんじもん)』を出版します。
寛政9年(1797年)に蔦重が世を去るため、大河ドラマではそこから先は見られませんが、瑣吉の人生はここから開花していくのでした。