【べらぼう】蔦重と出会い武士から町人へ…史実から曲亭馬琴(津田健次郎)の波乱万丈な前半生を追う (3/6ページ)

Japaaan

浪々の青春時代

荒んでいた?瑣吉の青年時代(イメージ)

長兄や母たちと合流した瑣吉は天明元年(1781年)に元服。改名して左七郎興邦(さしちろう おきくに)と名乗ります。

戸田家の徒士(かち)として士官し、奉公する傍らで俳諧・医術・儒学などを学びました。

俳諧:越谷吾山(こしがや ござん) 医術:山本宗洪(そうこう)・山本宗英(そうえい) 儒学:黒沢右仲(うちゅう)・亀田鵬斎(ほうさい)

俳諧については天明3年(1783年)に吾山撰句集『東海藻』へ入選したほか、天明7年(1787年)には自身で『俳諧古文庫』をまとめます。

幼少期から培ってきた文才を発揮しましたが、どうやら性格には難があったようでした。

せっかく長兄の伝手で仕官できた戸田家を辞し、その後あちこちの家を転々とします。

また悪い遊びでも覚えたのか、放蕩無頼の生活を送り、家にも寄りつかなくなりました。

天明5年(1785年)に母が危篤に陥っても連絡がつかず、兄たちが必死に奔走して何とか臨終に立ち会わせたそうです。

そんな弟は放っておけと思いますが、兄たちが情け深かったのか、あるいは母の切望だったのかも知れませんね。

貧しい暮らしが続く中、次兄の興春が若くして亡くなるなど、この時期は瑣吉の身辺で不幸が続きました。

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