朝ドラ「ばけばけ」後に“八雲”の名を授ける古武士!松野勘右衛門(小日向文世)のモデル・稲垣万右衛門の生涯 (3/5ページ)

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松江藩領の隠岐国は、諸外国に対する海防任務と考えられ、国内要所の警備は討幕派や治安悪化への備えと思われます。

万右衛門は、文武と人柄に優れたエリートとして藩主からも信頼されていた。

小泉家との縁とセツの「養祖父」

慶応4(1868)年、万右衛門に大きな出会いが訪れます。

松江藩士・小泉家(番頭・300石)の小泉弥右衛門湊の次女として小泉セツが誕生。セツは生後7日で、稲垣金十郎(万右衛門の嫡男)の養女となりました。

小泉家と稲垣家は縁戚で、稲垣家は100石の並士格です。身分的には小泉家が上位であったため、万右衛門はセツを「オジョ(お嬢)」と呼んで大切に育てていきました。

明治になると、稲垣家の暮らしに変化が訪れます。

明治8(1875)年、万右衛門の嫡男・金十郎が秩禄奉還を決断。手にした金で商売を始めますが詐欺に遭って失敗してしまいました。

加えて訴訟費用がかさみ、稲垣家の暮らしは困窮。先祖代々の家屋敷を離れ、転居を余儀なくされます。

孫・セツは小学校で優秀な成績を収めていたものの、上級への進学を断念。11歳で機織工場で働くこととなりました。

その後、セツは前田為ニを婿に迎えて結婚。為ニは働き者で、セツと仲睦まじく暮らしていたといいます。

しかしここで波乱が起きました。

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