幕末、徳川慶喜が戦意喪失し夜逃げ…は嘘!「鳥羽・伏見の戦い」で撤退した本当の経緯と真意 (2/5ページ)
意味が分からないと思うかも知れませんが、事実です。彼が敵認定していたのは薩摩藩のみでした。
薩摩藩は王政復古の大号令を画策し、小御所会議で辞官納地の要求をする形で慶喜を陥れた形になっていたからです。
慶喜は言わば私戦を挑んだわけで、そのことは薩摩討伐を表明し、その罪を明示列挙した弾劾、いわゆる討薩表を出した点によく表れています。
つまり、最初から逃げ腰だったとは考えられないのです。
ところが、旧幕府軍は初日から薩長連合の新式銃に押され、六日目には敗走兵が大坂城へどっと集まってきます。
さらに、津藩や淀藩が寝返るという痛手が重なって味方が減り、敵が増えたことで戦況は一気に不利になりました。
そこで生まれたのが、小説やドラマなどでよく描かれる、慶喜が家臣を振り切って夜半に大坂城を脱出するというシーンです。
撤退した経緯そういうフィクション作品では、老中や若年寄たちが猛反対するにもかかわらず「幕府に西郷や大久保のような者がおるというのか」と声を荒らげ、軍艦・開陽丸に乗船して江戸に逃亡するのが常です。