幕末、徳川慶喜が戦意喪失し夜逃げ…は嘘!「鳥羽・伏見の戦い」で撤退した本当の経緯と真意 (4/5ページ)

Japaaan

実は、彼は

大坂城を脱出し、江戸城に帰還した後、津田真道に「集議所」の設立を諮り、1月下旬に西周に立憲政治の研究を命じ、津田真道加藤弘之たちを参加させました。

ちなみに加藤弘之は、幕臣であり開成所の教授職であり、立憲政体を提唱した人物です。

さらに、銃砍・弾薬を大量に集め、この時点で江戸の軍備は大坂城の頃を上回る規模に拡張されていました。

当時の外国紙「ノース・チャイナ・ヘラルド」は「戦う気がないのなら、これらの動きは矛盾している」と記事にしています。

客観的に見ても、慶喜はこの時点で戦意を失ってはいなかったという証拠です。

将軍在任時の徳川慶喜(Wikipediaより)

このように、彼は江戸に戻ってからも「大君体制」樹立の計画を進めていたのです。

戦いについても、体勢を立て直して薩長と決戦し、新しい政府をつくる意思があったのでしょう。

では、なぜ最終的に恭順を選んだのか。それは、その後の諸藩の動向や、新政府の東征軍の編制などを鑑みての判断だったのでしょう。

少なくとも彼が戦意を失い、新政府樹立を明治政府に委ねることを決断したのは、江戸へ戻った後のことだったのです。

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