『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[後編] (5/8ページ)

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このように、足利将軍が考える守護とは、将軍が京都から各国に派遣した将軍の代理人であり、その国を領有するものではなく、非世襲の職ということになるのです。

室町幕府の黎明期である将軍の尊氏と義詮は、守護に北朝側の有力武将たちを任命します。その代表が、足利氏支流である三管領の細川氏、斯波氏、畠山氏であり、その他にも赤松氏、一色氏、京極氏・武田氏・土岐氏・山名氏・大友氏・島津氏などが、守護に任命されました。

将軍と守護大名は持ちつ持たれつの関係だった

さて、当初は将軍の信任が厚いという理由で、国内統治を安定させるための地方官であった守護は、時代が進むにつれその様相が大きく変化していきます。

その理由は、尊氏・義詮の時代に南北朝の争乱や観応の擾乱といった戦乱が続き、将軍が勝ち抜くためには守護の軍事力を必要としたからです。

応仁の乱では東軍の主将となった管領・細川勝元。(龍安寺蔵)Wikipedia

守護たちは将軍の軍事的な期待に応えるために、単なる地方官ではなく世襲による在地領主としての地位を望むようになり、将軍もそれを認めるようになりました。

父が死ねば子や弟が守護職を継ぐ。

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