『豊臣兄弟!』なぜ足利義昭(尾上右近)は信長を見殺しにしたのか?姉川で動けなかった“将軍”の限界[後編] (6/8ページ)
それが任国における武士との結びつきを強め、守護の軍事力は飛躍的に強大化していき、やがてそれは、守護の大名化へと繋がっていきました。
さらに守護には、所領紛争への介入権や、幕府の判決を現地で強制執行する司法権が与えられます。観応の擾乱の全国波及に伴っては、軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領の年貢の半分を徴収できる半済の権利も与えられ、経済的権威も飛躍的に高まったのです。
こうして守護は、任国を世襲支配でき、経済力・軍事力・司法力を有する守護大名へと成長していきます。
やがて将軍の権力を凌ぐほどの勢力を持つようになった守護は、たとえ将軍の命令であっても、自らに利益のないものには従わなくなっていったのです。
そして、有事の際の軍事力を守護大名に頼っていた将軍は、その協力を得られないとたちまちに危機に瀕してしまう。これが、義昭をして援軍を「出さぬではない、出せぬのじゃ」と言わしめた戦国期の足利将軍家の軍事的な弱さの正体でした。