『豊臣兄弟!』万丸を人質に取り最期まで秀吉に仕えた男…史実での宮部継潤(ドンペイ)の生涯を辿る (2/5ページ)

Japaaan

やがて比叡山を降りた(年季明け?それとも逃げ出した?悪さして追放された?)善祥坊は、湯次神社(ゆつぎ。滋賀県長浜市)で社僧を務めていた宮部清潤(せいじゅん)の養子となり、宮部継潤と名乗りました。

それから武勇を買われたのか浅井長政に仕官し、信長との合戦において活躍したと言います。

しかし元亀2年(1571年)10月に秀吉の調略に応じて織田へ寝返り、秀吉の与力となりました。

『浅井三代記』では織田に忠義を示すために浅井方の国友城を攻め、銃撃によって負傷したと言います。

いっぽう『信長公記』では少し前の8月から9月にかけて、宮部村を守るように命じられたとあり、寝返った時期にズレがあるようです。

ところで継潤は秀吉に対して「養子≒人質を出せ」と要求しており、秀吉は甥っ子である万丸(よろずまる。後の豊臣秀次)を差し出しました。

万丸は秀吉の姉とも(日秀尼。宮澤エマ)と弥助(三好吉房。上川周作)の長男であり、秀吉は姉夫婦から子供を奪いとったのです。

果たして万丸は後に元服して宮部吉継(みやべ よしつぐ。次兵衛)となり、後に三好康長(みよし やすなが)の養子となるまで人質の立場に置かれました。

※参考記事:

『豊臣兄弟!』息子3人を失い一族すべて処刑…豊臣秀吉の姉・とも(宮澤エマ) 激動の生涯

やがて天正元年(1573年)8月に信長が浅井長政を滅ぼすと、継潤は秀吉から3千石を与えられます。

この破格の厚遇から、継潤の寝返りが浅井攻略の上でいかに大きな転機となったかがうかがい知れるでしょう。

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