『豊臣兄弟!』万丸を人質に取り最期まで秀吉に仕えた男…史実での宮部継潤(ドンペイ)の生涯を辿る (3/5ページ)
かくして秀吉の与力となった継潤は、天正5年(1577年)から秀吉の中国攻めに従軍。主に羽柴長秀(小一郎。仲野太賀)を補佐しながら山陰方面で活躍しました。
小一郎が山陽方面へ出張して不在になる際は、代わりに指揮をとるほど信頼されたと言います。
歴戦を経て武功を重ね、天正8年(1580年)ごろには但馬国豊岡城(兵庫県豊岡市)と2万石の所領を与えられました。
天正9年(1581年)には因幡国鳥取城(鳥取県鳥取市)で城代を務め、毛利氏の反撃に備えたと言います。
翌天正10年(1582年)に本能寺の変(明智光秀による信長暗殺事件)が起こり、秀吉と小一郎が中国戦線から京都へ駆け戻った「中国大返し」では、前線に残って二人の背後を支えました。
これによって秀吉たちは、後顧の憂いなく明智光秀(要潤)との決戦に臨むことができたのです。
信長の死によって混乱した織田政権を乗っ取った秀吉により、継潤は鳥取城主の座と5万石の所領を賜わりました。
その後も天正13年(1585年)の佐々成政(白洲迅)討伐や天正15年(1587年)の九州征伐に参陣。武功を重ねています。
