わずか13歳で父を斬首、その刀で敵を返り討ち…戦国乱世に生きた少女の壮絶すぎる介錯 (3/4ページ)
家永は猫尾城に立て籠もり、龍造寺と連携しながら抵抗を続けましたが、ついに兵糧も底を尽いてしまいます。最早これまで……家永は自害して果てたのでした。享年60歳。
父を斬首したその刀で……
この時に家永の介錯を務めたのが、まだ13歳の三女でした。当時の様子を『毛利秀包記(ひでかねき)』はこう伝えています。
……彼(かの)黒木事、豊後大友公へ度々たてつき申付而(もうしつけて)、御人数(ごにんず)被差向(さしむけられ)候へ(そうらえ)とも、黒木城(くろきがしろ。猫尾城)以之外(もってのほか)難所故、落城不仕付(らくじょうつかまつらざるにつき)……(中略)……黒木手勢壱人(ひとり)も不残(のこらず)討死仕(つかまつり)、黒木、三番目娘、歳十三ニ罷成(まかりなり)候を召連、二階へ取上り、数人切臥(きりふせ)、其後(そののち)切腹仕候。彼娘、父がかいしやく仕、其刀にて敵壱人切、父の首と刀を二階より下へなけ(投げ)申候。其後、彼娘を生捕(いけどり)にして麟慶(丹波麟圭)方へ被成御渡(おわたしなされ)候。彼娘後肥前鍋島殿御家来大木兵部少輔女(妻)にて候……
※『毛利秀包記』
【意訳】黒木家永は大友家に度々反抗したため、軍勢を差し向けたが、その城は堅牢であったためなかなか陥落しなかった……(中略)……家永の手勢は一人残らず討死してしまったため、家永は13歳の三女を連れて城の二階へ上がり、数人を斬り捨ててから切腹。