『豊臣兄弟!』なぜ豊臣秀吉が天下を取れたのか?〜朝廷の権威を利用し天下人の地位を築く[後編] (2/5ページ)

Japaaan

1583年(天正11年)には、織田家筆頭家老の柴田勝家を賤ケ岳の戦いから北の庄へ追い詰め滅ぼすと、翌年には小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍と戦います。戦いはほぼ互角でしたが、家康・信雄ともに秀吉の圧倒的な兵力の前に、早期に和議を結ばざるを得ませんでした。

賤ヶ岳合戦図屏風に絵が画れた秀吉(長浜城歴史博物館)

そして、この翌年の1585年(天正13年)、早くも秀吉は天下取りを狙うべき行動に出ます。それは、「関白」の座を狙うことでした。

ただ農民出身の秀吉が関白になるためには、関白になりうる家柄と縁を結ばなければなりません。そこで、五摂家の一つ近衛前久の猶子となり、「藤原」氏を称したのです。羽柴秀吉転じて、藤原秀吉の誕生でした。

少し余談になりますが、秀吉が木下から羽柴へ姓を変えたのは1573年(天正元年)、浅井長政を滅ぼした功で、近江長浜城主となった時です。

それからずっと羽柴でいたかというと、実はそうではなく1582年(天正10年)から約3年間は正式には「平」を名乗っていたことが知られています。つまり、本能寺の変で信長が没し、山崎の戦いで光秀を滅ぼした後は、源氏と並ぶ武家の頂点・平氏を名乗っていたのです。

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