『豊臣兄弟!』初登場した信長の息子たちに待つ過酷な運命…史実で見る織田信忠・信孝の早すぎた最期 (6/9ページ)

Japaaan

天正10年(1582)3月、信忠は甲斐武田氏の征伐に成功しますが、その栄光は長くは続きませんでした。

同年6月、信忠は信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉の援軍に向かうべく、京都の妙覚寺に滞在。この時に『本能寺の変』が発生しました。信忠は、すぐに救援に向かうも、信長自害の知らせを受け明智光秀を討つべく二条新御所に移動します。

懸命に応戦するも敵兵の数の多さに勝ち目なしと断念し、自害しました。まだ25〜26歳という若さでした。

▪️後継者に相応しい能力と資質

二条新御所での戦いの時、下方弥三郎という若者が瀕死の重傷を負ったとき、信忠がその姿を見て「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と言い渡し、感激した弥三郎は笑いながら敵中に突っ込んでいき討死したという逸話があります。

以前は、徳川家康の長男・松平信康と比較され「暗愚で平凡な将」のイメージがありましたが、近年では事績が見直され「後継者に相応しい能力と資質の持ち主」という説が主流になっているそうです。

織田信忠画像(総見寺蔵)wiki

政争に敗れた織田信孝――兄の命で切腹した悲劇

信孝は、信長の三男で永禄元年(1558)生まれ。

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