【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期 (5/10ページ)

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昔は仲が良かった信長の弟・信勝(中沢元紀 )。NHK大河「豊臣兄弟!」公式サイト

織田家を支える人物として活躍

信澄は、織田本家と区別をするために庶流・分家である津田氏に入り(養子縁組的な扱いを受けた)津田姓を名乗ったといわれています。

元亀2年(1571年)には、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子になりますが、磯野姓を名乗ったかは不明です。

天正(1574年)2月に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆(※)の「御坊様」として出席。

同年3月に信長が東大寺正倉院の香木・蘭奢待を切り取った際にも、「津田坊」と童名で呼ばれているので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかったのかもしれません。

※将軍や大名の側近に侍して相手をする職名

▪️越前一向一揆征伐が初陣

天正3年、磯野員昌と共に越前一向一揆征伐に従軍したのが信澄の初陣です。その戦いでは、柴田勝家丹羽長秀とともに鳥羽城攻めを行い、500〜600の一揆勢を討ち取ったそうです。

また、同年9月25日、京から来た公家の吉田兼見を馳走して信長への取次役を務めたり、10月に兼見が信長に礼参した際には、信澄が進物を披露したりという働きも。

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