【豊臣兄弟!】裏切りか不幸な濡れ衣か?信長の甥・織田信澄(緒形敦)「本能寺の変」で迎える悲劇的な最期 (6/10ページ)

Japaaan

信澄は若い頃から信長の信頼を得ていたようです。

その後は近江に領地を与えられ、明智光秀の丹波攻略に参戦し光秀の娘を正室にもらい、天正七年(1579年)には長男も生まれています。さらに、石山本願寺との戦いや荒木村重征伐にも参加、信長の趣味であった相撲興行でも奉行を務めました。

単純に腕っぷしに優れた者を決めるだけではなく、戦いぶりなども観察して優れていると思われる人材を発掘する現場ともいわれた相撲大会。そこで、堀秀政や蒲生氏郷などと一緒に奉行を務めたということは、「重臣」同等と扱われていたのかも知れません。

さらに、信長の一大軍事パレードである『京都御馬揃え』の際も、一門衆の五番目として、信長の長男・次男・弟・三男のという場所に位置しました。

その後もさまざまな活躍をし、丹羽長秀とともに家康の接待も命じられた信澄。弟には裏切られたとはいっても、やはり自分の血が繋がっている甥っ子です。「今後の織田家を支える人物」候補として信長は信頼し、期待をかけていたのではないでしょうか。

順風満帆に見えた信澄の人生は、この後大きく変わったのでした。

「天下第一」に名香・正倉院に収蔵されている香木、蘭奢待。wiki

本能寺の変で明智側の人間と疑われ

天正10年6月2日、明智光秀が約13,000人もの大軍を率い、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を急襲した『本能寺の変』

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