朝ドラ『風、薫る』孤児を救い異国で命に寄り添った女性…工藤トメのモデルとされる広瀬梅の生涯 (5/6ページ)
引き取り先が見つからなかったため、梅はその赤ん坊を桜井女学校の寄宿舎へ連れて帰りました。
赤ん坊は、旧約聖書の「ルツ記」にちなんで「ルツ子」と命名。夜に泣き出すと、梅は抱いて一晩中歩いたとも伝わります。
やがてルツ子は、麻布鳥居坂教会の会員であった夫妻の養子となりました。
この出来事は、梅の人柄をよく物語っています。制度や肩書きだけでなく、目の前の命を見捨てない。その姿勢こそ、梅が学んだ看護の精神だったといえます。
その後、梅は佐野佳三と結婚。程なくしてアメリカへ渡り、サンフランシスコを拠点としました。
梅は日本人家庭の出産を助けるべく、助産師としても活動。同時に夫・佳三ががつくった学校で日本の歴史や国語を教えました。
しかし当時のアメリカでは、排日運動が強まっています。
そうした中で、梅と佳三夫妻は在留邦人グループの中心的存在となったとされています。梅は看護師、助産師、教育者、そして移民社会を支える女性として、多面的な役割を担っていきました。
梅は夫との間に6人の子に恵まれます。平和な時代であれば、順風満帆であったはずです……。
しかし昭和16(1941)年、梅は佳三とともに帰国の途につく道を選びました。しかし帰国の船上で夫・佳三が亡くなります。
梅は非常に落胆し、いったん親類や友人のいるアメリカへ戻りました。
昭和18(1943)年、梅は日本へ帰国します。このとき75歳となっていました。
すでに太平洋戦争のさなかの帰国であり、若き日に海を渡り、異国で長く暮らした梅にとって、日本へ戻ることは、人生の大きな区切りでした。
帰国後、梅はかつて三陸津波の被災地から連れ帰ったルツ子と再会。これはのちの昭和28(1953)年の『東京朝日新聞』などが、60年ぶりの「親子」の邂逅として報じたとされています。梅、ルツ子、ルツ子の育ての母の3人が聖書に手を添えて再会を喜ぶ写真も掲載されたといいます。
その後、梅は世を去ったと思われますが、没年について詳細はわかっていません。