14万人に包囲されても突撃…“越前の狂犬” 富田長繁、常識外れの戦いと24歳の非業の最期 (3/4ページ)
この噂をきっかけに領民たちは長繁と手を切り、新たな大将である加賀国の一向宗門徒の七里頼周(しちり-よりちか)を中心に一致団結。
土一揆から一向一揆に変わった14万人の一揆勢は、長繁を討つために行動を起こしました。
長繁の覚悟が奇跡を起こす一揆勢の勢いは凄まじく、天正2年(1574)2月13日に猪介を殺害し、14日には長繁のいる府中を包囲します。
窮地に陥った長繁は、勢いを削ぐために府中近くにいる2万の一揆勢めがけて突撃を開始。長繁の手勢は700人ほどでしたが、死を覚悟した兵たちの士気は高く、2,000人以上を討ち取って府中に戻りました。
ここから長繁は、府中の町衆と本願寺と敵対関係にある真宗三門徒派合わせて6,500人以上を3,000石の恩賞を条件に味方につけます。そして、17日に北ノ庄城攻略に向けて北上。対する頼周率いる一揆勢も南下し、両軍は浅水で対峙します。
味方が増えても長繁の軍は劣勢でしたが、戦慣れしていた強者が多くいました。そのため、先鋒を撃破すると一揆勢は四方に散り始め、長繁は難なく勝利を収めました。
狂犬の最後はあっけなく…
長繫は前漢の樊噲に匹敵するほど勇猛でした/Wikipediaより
その日の夕方、勝利で得た勢いのままに長繁の軍は、先の戦いで傍観を貫いた旧朝倉家臣の安居景健(あんご-かげたけ)と朝倉景胤(かげたね)が籠る砦に侵攻します。