14万人に包囲されても突撃…“越前の狂犬” 富田長繁、常識外れの戦いと24歳の非業の最期 (2/4ページ)
そして、天正元年(1573)に朝倉氏が滅亡すると、長繁が越前府中の領主に長俊が越前守護代に任命されます。しかし、この結果に納得のいかない両者は、次第に険悪なムードとなっていきます。
民を使って越前の支配者へ
この溜まりに溜まった不満が爆発した長繁は天正元年(1573)12月に、一揆を扇動するために長俊に不満を持つ人物たちと密談を開始します。翌天正2年(1574)1月には長俊の圧政に苦しむ民をけしかけ、土一揆を勃発させます。
その中で長繁は、大将として3万を超える一揆勢を率い、長俊とその家族を斬殺。また、敵対関係や遺恨がないにも関わらず、理由もなしに同じ朝倉家臣だった魚住景固(うおずみ-かげかた)とその一族を滅ぼしました。
仁者として民に慕われていた景固を殺害したことをきっかけに、民衆の反発や他の朝倉家臣たちから距離を置かれ、徐々に求心力を失い始めます。
それでも、統治者不在の越前国を手中に収めた長繁は、領民から支持を得るために土民直訴の許可や家屋にかかる税を禁止するなどの政策を実施しました。
しかし、長繁が信長にこれまでのことを謝罪し、越前守護と認めてもらう代わりに弟を人質に出すという噂が広まってしまいます。