朝ドラ「風、薫る」侍医から医学界の重鎮へ…内科助教授・坂田幸作のモデル・入沢達吉の生涯 (6/7ページ)
水、食べ物、住環境、労働、地域衛生にも広がっていきます。
達吉の仕事は、そうした時代の課題に向き合うものでした。
大正10(1921)年、達吉は東京帝国大学医学部長に就任。また、東京帝国大学医学部附属医院長も務め、医学界の頂点に立ちました。
大学医学の教育者であり、臨床の責任者でもある。これは非常に重い立場です。
大正13(1924)年には、医学部長を辞任した後、教授職のまま宮内省侍医頭となりました。翌大正14(1925)年には東京大学を退職し、名誉教授となり、その後は宮内省侍医頭に専任しました。
若い頃、宮内省侍医を短期間で辞めた達吉が、晩年に再び皇室医療の中心へ戻ってきたことは、人生の不思議な巡り合わせにも見えます。
明治の若き医師として出発し、大正期には日本医学界の重鎮となる。その歩みは、達吉自身の努力だけでなく、日本の医学制度そのものが成長していく過程とも重なっていました。
達吉は、医学者として知られる一方で、随筆家としても名を残しました。
達吉の著作としては『入沢先生の演説と文章』『雲荘随筆』『楓荻集』『伽羅山荘随筆』などが挙げられています。
号は雲荘と名乗ったと伝わります。医学者でありながら文章をよくし、知識人としての顔も持っていました。
この点も、明治大正期の知識人らしいところです。当時の医学者は、専門家であると同時に、国家や社会の行く末を考える知識人でもありました。医学、教育、衛生、文化、国際交流。それらを一体のものとして考える時代だったのです。
昭和13(1938)年11月8日、達吉は世を去りました。享年73歳。医学の発展に人生を捧げ、一人の医師としての使命感を忘れず、患者のために奔走した生涯でした。