朝ドラ「風、薫る」ペスト感染の最前線で命懸けの活動!木村文平(前野朋哉)の実在モデルとされる青山胤通の生涯 (3/6ページ)
幕末の江戸に生まれた藩士の子
安政6(1859)年5月15日、青山胤通は江戸・麻布で美濃苗木の下級藩士で神道家でもあった、青木景通の三男として生を受けました。幼名は捨松(助松とも)と名乗ります。
胤通が生まれた時代、幕末の日本が大きく揺れていた時代です。
ペリー来航以来、尊皇攘夷派が台頭。次第に幕藩体制は揺らぎ、時代は大きく変わろうとしていました。
慶応3(1867)年10月には、将軍・徳川慶喜は朝廷に政権を返上(大政奉還)。これによって幕藩体制は終わりを告げ、日本は新たな時代を迎えます。
明治となると、青木家の暮らしも大きく変わりました。
父・景通は政府の神祇事務局に出仕。神祇官権判事や神祇少祐などの要職を歴任していきます。
明治2(1869)年、胤通は平田信胤(平田銕胤の養子)の養子となり、平田姓を称することとなります。
しかし明治4(1871)年、信胤が死去。胤通は青木家に戻ることとなりました。
その後、胤通が志を立てたのは、医師の道です。
明治15(1882)年、青山胤通は東京大学医学部を卒業。近代西洋医学を学んだ医師としての道を歩み始めます。
当時の東京大学医学部は、日本に西洋医学を根づかせる中心的な場所でした。
東京大学医学部の前身は、江戸時代の種痘所や医学所です。同組織は幕末から明治にかけて制度を変えながら発展していきました。
東京大学の歩みによれば、慶応元(1865)年には内科、外科、解剖、生理、病理、薬剤学などの科目が置かれており、近代医学教育の土台が整えられていきました。
胤通は卒業後、ドイツへ留学。明治16(1883)年にベルリン大学へ渡り、内科学を学びました。ベルリンでは、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウら当時の医学界を代表する学者たちのもとで、近代医学の方法を身につけたとされます。