鎌倉武士は“脱税集団”だった?源頼朝が見抜いた朝廷支配のほころび〜鎌倉幕府の誕生 (3/6ページ)
この方針が、武士たちの支持を集め、頼朝は平氏をしのぐ軍勢を率いることができました。
頼朝は朝廷によるシステムの欠陥を冷徹に見抜いていたのです。
寿永三年の交渉では、武士への恩賞は朝廷ではなく頼朝が直接行うという要求を突きつけました。武士を朝廷の給料システムから完全に切り離したのです。
言うまでもなく、これは武家独自の統治体制を作ろうとする重要な布石でした。
さらに文治元年、頼朝は朝廷から守護・地頭の設置と、兵糧米の徴収権を認めさせることに成功します。
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小学校で習う「守護・地頭」は何者だったのか?鎌倉幕府が朝廷から“土地と税”を奪った仕組み後者の兵糧米徴収権の実態は独自の税金を徴収する権利であり、収穫量調査などの会計検査権も伴っていました。
こうして地方の財源は実質的に武家のものとなり、頼朝は鎌倉幕府成立の決定的な基盤を握ることになったのです。
さらに守護・地頭を全国に派遣することで、武家は地方支配を強化し、もはや朝廷が口出しできない体制を完成させたのでした。
幕府誕生=構造の変化
そうなるとひとつの疑問が浮上します。なぜ、老獪な後白河上皇は頼朝にこれほどまでの大幅な権限を与えてしまったのでしょうか。
