少数精鋭で大軍に逆転勝利!戦国武将・毛利元就が初陣で“西の桶狭間”を起こした有田中井手の合戦とは (5/7ページ)
いつまで経っても対岸に上陸できない様子に痺れを切らした元繁は、ついに自ら騎乗して又出川に乗り込みます。
そして案の定というべきか、元繁も矢を受けて毛利家臣の井上光政(いのうえ みつまさ)に首級を獲られてしまいました。
総大将を喪った武田軍は総崩れとなり、みな我先にと今田城(北広島町)へ逃げ込んだのです。
三度目の正直ならず、残党たちの悪あがき
今田城では武田残党の粟屋繁宗(あわや しげむね)・香川行景(かがわ ゆきかげ)・己斐宗瑞(こい そうずい)・品川信定(しながわ のぶさだ)・伴繁清(とも しげきよ)らが集まり、善後策を協議していました。
粟屋・品川・伴らは、一度撤退して態勢を立て直し、捲土重来を期するべきと主張します。これに対して香川・己斐らは弔い合戦を挑むべしと譲りません。
意見が平行線をたどったまま10月23日、捲土重来派を残して弔い合戦派が出撃を敢行しました。
しかし守護大名出身というブランドを持ち、項羽(こう う。古代中国の伝説的覇王)にも比せられた武勇で恐れられた武田元繁亡き今、残党たちをまとめ上げることはできません。
恐らく数の上でこそ優勢だったのでしょうが、少数精鋭の元就たちに三度まで敗れ去り、香川・己斐らは落ち武者狩りで命を落としたのです。
かくして後世「西の桶狭間」と謳われた有田中井手の合戦は幕を下ろしたのでした。