「高野山」は“社会的な死”を意味する?聖地に送られた戦国武将たちの非情すぎる末路 (3/5ページ)

Japaaan

豊臣秀次(1568~1595)

豊臣秀次像(瑞泉寺蔵、Wikipediaより)

豊臣秀次は豊臣秀吉の養子で、大いに将来を嘱望されていました。天正19年(1591)12月、秀次が秀吉から関白の座を譲り受けましたが、文禄2年(1593)8月に秀吉に実子が誕生すると、秀次の将来に暗雲が垂れ込めます。

その2年後、秀吉は突如として、秀次に高野山行きを命じます。青巌寺に幽閉され、最終的に切腹を命じられています。

秀次が高野山で切腹したのは、同年7月15日のこと。その後、秀次の妻らも粛清され遺骸は穴に捨てられました。そこには首塚が設けられ、のちに「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれました。

秀吉に実子が生まれたから邪魔になったからというのが通説ですが、秀次が自ら高野山で蟄居したという説もあります。

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