「高野山」は“社会的な死”を意味する?聖地に送られた戦国武将たちの非情すぎる末路 (4/5ページ)

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織田信雄(?~1630年6月10日)

織田信雄画像(総見寺蔵、Wikipediaより)

信雄は信長の次男です。父・信長と兄・信忠が本能寺の変で自刃。信雄は近江(滋賀県)まで進軍するも、安土城を焼き払ってしまうなどの失態を演じます。

その後の清洲会議では後継者になれず、織田家家督は甥の三法師へ。信雄は尾張・伊勢などを領有する大名となりました。しかし関ヶ原の合戦後に政治的影響力を失い、一時期高野山に入ったことがあります。

1584年の小牧・長久手の戦いでは当初、徳川家康と結んで豊臣秀吉に対抗したものの途中で秀吉と単独講和してしまいます。

1590年の小田原征伐の後、秀吉から「徳川家康の旧領へ国替え」を命じられますが、住み慣れた尾張を離れたくないとこれを拒絶。秀吉の逆鱗に触れて領地をすべて没収され、出家して各地を流浪することになります。そして高野山で蟄居生活を送りました。

しかし家康のとりなしで死は免れ、1592年〜1614年お伽衆(話し相手)として復帰。

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