『豊臣兄弟!』明智光秀は生きていた?最期をぼかした演出と「光秀生存説」を史実から考察 (5/9ページ)
③比叡山の石灯籠に、「奉寄進願主光秀 慶長二十年二月十七日」と刻まれている。
④天海が深く関わった日光に、「明智平」という地名が残る。
⑤家康と光秀はもともと親しかったとされ、南光坊天海の「光」は光秀に由来する。
このような説は、物語としては非常に面白いのですが、現在のところ、天海=光秀説は確実な史料によって裏付けられたものではなく、伝承の域を出ないと考えられています。
光秀の首は本物だったのか?さまざまな「生存説」では、「光秀=天海説」のほかに、光秀生存説にはどのようなものがあるのでしょうか。代表的なものとしては、次のような説があります。
①光秀の首は偽物だった。
②農民に討たれたのは影武者だった。
まず①については、重傷を負って自害した光秀の首を、重臣の溝尾庄兵衛茂朝が現場近くに穴を掘って隠したという伝承があります。その首を翌日、農民たちが掘り出し、秀吉のもとに届けたというのです。
しかし、山崎の戦いが行われたのは天正10年(1582)6月13日です。季節はすでに夏であり、翌日に掘り出された首が、果たして本当に光秀のものだと判別できたのかという疑問が残ります。