【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた (2/7ページ)
桑山氏は鎌倉幕府の重鎮であった結城朝光(ゆうき ともみつ)の子孫で、尾張国海東郡桑山庄(愛知県あま市)を領したことから、その地名を苗字にしたと伝わります。
元服して通称を彦次郎(ひこじろう)と名乗り、諱ははじめ桑山重勝(しげかつ)と名乗りました。
また官途名(主君から許された官職の私称)には修理進(しゅりのしん)・修理亮(しゅりのすけ)を用いていますが、のち正式に従五位下・修理大夫(しゅりのかみ)と叙せられています。
はじめは織田重臣・丹羽長秀(池田鉄洋)の与力として奉公していましたが、天正3年(1575年)ごろに秀吉の奉行衆に名を連ねるなど、そちらへも仕えるようになりました。
秀吉と丹羽長秀は所領が近かったことから、重晴は両属すなわちどっちへも柔軟に力を貸したのでしょう。
信長政権時代には一万石を領するようになっており、織田家中において高く評価されていたことがうかがえます。
やがて天正10年(1582年)に織田信長(小栗旬)が横死をとげると、織田政権が揺らぐ中で、重晴は秀吉へ従う旗色を鮮明にしました。
すると秀吉は、重晴を羽柴長秀(小一郎)の与力につけています。