【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた (5/7ページ)

Japaaan

このころに剃髪・出家して治部卿法印(じぶのきょうほういん)、また果法院宗栄(かほういん そうえい)と号しました。

慶長元年(1596年)5月11日になると重晴は隠居して、家督と修理大夫の官職を嫡孫の桑山一晴(かずはる)に譲ります。嫡男の桑山一重(かずしげ。一晴の父)は既に先立っていました。

隠居後は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として近侍し、慶長3年(1598年)に秀吉が世を去ると、遺産として黄金15枚を拝領します。

徳川政権下でも生き延びる

和歌山城(イメージ)

秀吉の死によって、豊臣政権は大いに混乱しました。信長の時もそうですが、一代で事業を急成長させたカリスマが喪われると、その反動は非常に大きくなるものです。

慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の合戦では、徳川家康(松下洸平)率いる東軍に属し、和歌山城の守備に当たりました。

勝利によって所領を安堵された重晴は再び隠居し、嫡孫の一晴に二万石、自分の次男である桑山元晴(もとはる)に一万石を分け与えます。

残り一万石のみを自身の所領としましたが、一晴から四千石、元晴から二千石をが養老領として返還されました。そのため重晴の所領は一万六千石となり、これが和泉谷川藩となります。

そして慶長11年(1606年)10月1日、83歳で世を去りました。徳川将軍家は生前の功績により、その遺領を召し上げずに子孫たちへ配分してやったということです。

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