【豊臣兄弟!】“情けない姿”に騙されるな!知略の名将・桑山重晴の「偽りの降伏」が秀吉を救っていた (4/7ページ)
平時に仲間を欺くのは非道ですが、戦場で敵を欺くのは知恵と剛胆のなせる業。重晴はまさに知勇兼備の名将でした。
戦後の論功行賞で、重晴は丹羽秀重(にわ ひでしげ)や長束正家(なつか まさいえ)らと共に知行を加増されています。
また小一郎が本拠地をそれまでの竹田城から姫路城へ移したのにともない、重晴は竹田城主を任されました。
小一郎には古参の家臣がいる中で、特に重晴が抜擢されたのは、周囲も重晴の力量を認めていたのでしょう。
豊臣政権で活躍
その後も重晴は小一郎の家臣として活躍し、天正13年(1585年)の紀州征伐では自ら敵の首級を上げて感状を受けています。
また小一郎が大和一国を与えられると、重晴は紀伊和歌山城主に栄転し、二万石を加増されました。
やがて天正19年(1591年)に小一郎が世を去ると、その婿養子であった羽柴秀保(ひでやす。姉ともの三男で小一郎の甥)を補佐します。
その秀保も文禄4年(1595年)に世を去ると、大和大納言家(小一郎の一族)は断絶したため、重晴は秀吉の直臣となりました。
同年7月のいわゆる「秀次事件」では、秀吉の警護を務めた功績で一万石を加増され、合計四万石を領することになります。