300人で8500人を返り討ち!『逃げ上手の若君』瘴奸モデル・平野将監の絶望的な籠城戦と悲劇の結末【後編】 (3/5ページ)
鎌倉幕府の大軍勢襲来!上赤坂城での過酷な籠城戦の結末とは…
西国での倒幕軍の快進撃は、鎌倉幕府の支配体制を大きく揺るがします。
鎌倉幕府は大軍を西国に向けて派遣。本格的に倒幕側を討伐するように動いていきます。
将監は楠木正成と共同戦線を展開して幕府軍を迎撃しています。
元弘3年/正慶2(1333)年2月22日、上赤坂城(楠本本城)に主将として入った将監は、楠木正季(正成の弟)を副将として布陣。正成の千早城、護良親王(後醍醐天皇の皇子)の吉野城の3ヶ所で連携を強めての籠城でした。
『太平記』などでは、楠木正成の活躍が多く語られがちです。
しかし幕府軍が実際に主戦場と想定していたのは、将監が立て篭もる上赤坂城でした。
幕府は上赤坂城攻めに大手総大将・阿蘇(北条)治時を派遣。千早城と吉野城攻めには、副将である搦手大将の大仏高直と名越宗教が配置されています。
将監の配下は多くても300人程度。対して上赤坂城を囲む幕府軍は8500人いたとされます。
戦いは熾烈を極めますが、将監たちはよく持ち堪えて抵抗を継続。敵勢のうち1800人程度の死傷者を出すほどの健闘を見せます。
当時の鎌倉武士たちは、騎兵を主力として、長大化した大型の太刀を用いて戦っていました。
当然、雑兵が多い将監たちにとって正面からの戦いは不利です。