300人で8500人を返り討ち!『逃げ上手の若君』瘴奸モデル・平野将監の絶望的な籠城戦と悲劇の結末【後編】 (4/5ページ)
この戦力差を覆すために考案されたのが、弓矢と上赤坂城の地形です。
当時の弓矢は射程距離が大幅に向上しており、強度を増した遠方射撃が可能となっていました。
加えて上赤坂城は騎兵が稼働しにくい設計で構築されており、十分に鎌倉武士たちの力を発揮できなようになっていました。
しかし衆寡敵せず、やがて上赤坂城に限界が訪れます。
すでに将監の配下のうち討ち死が70人、手負いは200人を超えていました。残るのは30人程度です。
時期は不明ですが、副将の楠木正季は上赤坂城を脱出して正成の千早城に合流。これは将監が逃したものとも思われます。
『太平記』によると、落城を悟った将監は幕府方と交渉。赤橋右馬頭(阿蘇治時を指すか)から助命と本領安堵の約定を取り付けたとされます。
しかし軍奉行の長崎九郎左衛門(長崎師宗)は約定を反故にして捕縛。降伏した将監ら30人は、六波羅探題に身柄を引き渡され京の六条河原で処刑されたといいます。
しかし史料上は、投降後の消息についてはわかっていません。
『逃げ上手の若君』の瘴奸のように、実際は生き残っていた可能性も排除することはできないでしょう。
確実に言えることは、平野将監という悪党が西国で立ち上がり、幕府軍を苦しめ凧とで、のちの倒幕実現へとつながる道筋ができた、ということです。