300人で8500人を返り討ち!『逃げ上手の若君』瘴奸モデル・平野将監の絶望的な籠城戦と悲劇の結末【後編】 (2/5ページ)
楠木正成は下赤坂城で挙兵しますが、城は幕府軍によって包囲。陥落後に正成は行き方しれずとなります。
後醍醐天皇は捕縛されて隠岐国に流され、倒幕の戦は終結したかに見えました。
しかし元弘2年/正慶元(1332)年、楠木正成は再度挙兵して赤坂城を奪還。わずか半月の間に和泉国と河内国南部を席巻したといいます。
六波羅探題は四天王寺に城郭を構築。正成の進撃を止めるべく動きます。
このとき、楠木正成に合力して動いたのが将監でした。
元弘3年/正慶2(1333)年1月19日公家・四条隆貞を旗頭とした、将監と正成らの軍勢500騎は六波羅探題代官らの軍勢5000騎(諸説あり)と対峙します。
将監と正成らのほとんどは雑兵で、平地での戦を苦手としています。一方の六波羅探題側は多勢であり、しかも騎馬を主力としていました。
将監らの勝ち目はかなり薄い戦であり、しかも四天王寺を攻める立場という不利なものです。
戦いは午前10時ごろに始まり、深夜まで及びました。
将監は弟3人とともに参加しており、このうち四弟・平野孫四郎はが戦死を遂げています。
絶望的な戦況ながらも、最後に将監と正成たちは勝利を獲得。四天王寺を陥落させることに成功しました。
そしてこの戦は、平野将監という名前が歴史の表舞台に現れた最初の戦でもあります。
しかし将監と正成に勝利の余韻に浸る余裕はありません。
すぐに幕府方は宇都宮高綱(公綱)率いる「紀清両党」の500騎を差し向けて来ます。
22日、将監らはすぐに撤退を決断。四天王寺を明け渡して、次の戦いへと備える道を選ぶのです。