【豊臣兄弟!】寧々一筋のはずが実は側室200人超!石川数正はなぜ出奔?ほか…第39回の史実を一挙紹介 (2/10ページ)

Japaaan

大名や武将たちはもちろんのこと、農民たちにしても血族や姻族の持つ互助機能を磐石にしなければ一族の存続がおぼつきません。

それで秀吉も長浜城主時代に側室を迎えており、彼女は住んでいた場所から南殿(みなみどの)と呼ばれ、一男一女をもうけています。

ただし彼女の子供はどちらも早逝してしまい、菩提を弔うために出家。江戸時代の寛永11年(1634年)に世を去ったのでした。物語には影響がないため、彼女たちの存在は割愛されてしまった次第です。

ちなみに子供はできなかったけれど、秀吉の側室は他にもたくさんいました。

姫路殿(ひめじどの。織田信長姪)……天正5年(1577年)ごろ側室に 山名茜(やまな あかね。山名豊国女)…天正8年(1580年)ごろ側室に 京極竜子(きょうごく たつこ。京極高吉女)…天正10年(1582年)ごろ側室に 蒲生とら(がもう とら。蒲生賢秀女)……天正11年(1583年)ごろ側室に 前田摩阿(まえだ まあ。前田利家三女)…天正13年(1585年)ごろ側室に 等

※この後も続々と側室は増え続け、200人とも300人とも言われる妻妾を抱えることになります。

なんと側室300人!豊臣秀吉の女性選びが、他の戦国大名とちょっと違った理由とは?

彼女たちについて、この世界における寧々はどのように思っていたのでしょうか。

「【豊臣兄弟!】寧々一筋のはずが実は側室200人超!石川数正はなぜ出奔?ほか…第39回の史実を一挙紹介」のページです。デイリーニュースオンラインは、豊臣完子、蒲生とら、羽柴小吉、石松丸、於次丸、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る