日本初の女子帝大生・丹下梅子とは?48歳で海を渡り、67歳で日米二度の博士号を手にした不屈の軌跡【後編】 (2/4ページ)
まして梅子が生きた時代には、日本人女性が海外で科学研究を行うこと自体が珍しいことでした。

1920年代のジョンズ・ホプキンス大学(Historic Johns Hopkins University photos now available online より)
梅子の経歴を眺めると、その歩みは決して一直線ではありません。教師として働き、28歳で大学へ入り、研究助手となり、40歳で帝国大学へ進み、大学院で研究を続ける。そして48歳で海を渡る。
若いころから研究者としての道が約束されていたわけではありません。その時々で学び、仕事をし、経験を積み、その先に次の道が開かれていきました。
帰国後も続いた研究 67歳で農学博士にアメリカから帰国した梅子は、母校である日本女子大学校で教壇に立ちます。同時に、理化学研究所でも研究を続けました。そこで取り組んだ研究の一つが、ビタミンです。現在では、ビタミンという言葉を知らない人はほとんどいません。
しかし、梅子が研究していた時代には、ビタミンについてまだ多くのことがわかっていませんでした。食品と健康との関係を科学的に解明しようとしていた時代です。
梅子は理化学研究所で、ビタミンB1の研究で知られる鈴木梅太郎のもとでも研究しました。大学で学生を教えながら、自らも研究を続ける。教育者であると同時に、研究者として生きたのです。そして1940年、梅子は67歳になりました。
この年、東京帝国大学から農学博士の学位を取得しています。研究テーマはビタミンに関するものでした。すでにジョンズ・ホプキンス大学でPh.D.を取得していた梅子は、日本とアメリカの両方で博士号を取得した女性科学者ということになります。
ここまで来ると、梅子を「日本初の女子帝大生」という一言だけで説明することが難しくなります。