はるしにゃんの幾原邦彦論 Vol.2 ウテナと革命の精神分析にゃん (5/6ページ)
そして、仏思想家・精神科医であるラカンによれば人間主体は発達の過程において、全能感や、母の愛の完全なる対象であるという母子相姦的な欲望、ファルスという究極的な存在であるという凄絶な享楽を断念し、「父の名(な)=父の否(いな)」というシニフィアン、つまり超越論的な記号に導かれ、「ファルスになる」という欲望が「ファルスを持つ」の欲望へと転換される。
これは存在の範疇から所有の範疇への移行である。つまり私たちは、全能ではありえないから「全能=ファルスになる」を諦め、その代替物として「ファルスを持つ」ことでそれに対処する。このファルスの代替物こそが、すなわち欲望の原因としての対象である。
「ファルスになる」ことは、男女が未分化であるがゆえに全的に母を求める前エディプス期的な欲動、即時的な享楽である。それに対して、エディプス期、すなわち性の違いに気付き、一番身近な異性である母か父に関心を持つことで、自分と同性の親に嫉妬を抱くとき──わかりやすく言えば言語活動の世界に生まれ落ちたとき、人は、空虚な記号に過ぎない言語をインストールする社会的存在となる。
さらに、同性の親に嫉妬を抱いた男児は、父に対する嫉妬自体に罪悪感を覚えることが指摘されている。それが、「去勢不安」である。
そしてウテナにおいては、「ファルスになることへの断念=去勢不安」それ自体が「否認」されることになる。
これを政治的に換言すれば「〈不可能としての革命〉への志向が「去勢の否認」によって「倒錯的」に敢行されている」と言える。
前回の連載にて私は、人間主体は「神経症/精神病/倒錯」のいずれかに分類されるとしたが、彼女は鑑別学的には倒錯者なのである。そうであるがゆえに彼女は男装の令嬢なのだ。