プロレス史上最大の興行「新日本vsUインター」当事者たちの証言 (2/5ページ)

日刊大衆

当時、俺は新日本のフロントで、健ちゃんと安生はUインターのフロントと選手。あの頃は客もよく入ったよねえ。

―両団体の最初のコンタクトは、1992年10月に、ルー・テーズさんが新日本の事務所を抜き打ち訪問したことでしたね。

永島 うん。「なんだこりゃ」と思ったけど、話を聞く耳は持ってましたよ。

安生 宮戸(優光)さんが『週刊ゴング』のインタビューから、蝶野(正洋)が高田(延彦)さんとやりたがってるというのを拾ってきてね。これはチャンスだ、と。テーズさんも宮戸さんに頼まれて行っただけで、いい迷惑だったと思うけど。

永島 で、翌月、新日本の事務所で会談をすることになったんだけど、新日本からは俺と長州(力)とマサ斎藤、そっちは健と安生と宮戸が出たんだよな。

鈴木 「蝶野への挑戦のリスク料、3000万円払え」とか言われてね。「なんでこっちが払わなきゃいけないのか」と。オマケに、蝶野への挑戦権をかけて、巌流島で3vs3で戦うって。その試合に蝶野は出ないのに、高田さんの出場は厳命で。

安生 もう新日本さんは、明らかにやりたくない気満々なんだもん! コイツら、どうやって追い返してやろうか、って考えた結果、こんな珍妙なアイデアになったんじゃないの? 

永島 だって、そっちが勝手に言ってきたことだったから(笑)。こっちはその条件を言って、3人に別室を用意してあげたの。「どうぞ、こちらで30分お考えになって下さい」と。

安生 こちらは、そんな話になると思わなかったから、ポカーンですよ。根回ししてれば3000万なんて言われることもなかったと思うんだけど(笑)。

永島 巌流島とかは言わなかったろうな。

安生 もったいないですよねえ。巌流島には客入れないんだから。収益上がりませんよ。

鈴木 でも、宮戸は前向きで。「3000万用意して、やっちゃおうよ!」って。ちょっと待て、その金を用意するのは俺だぞ、と。結局、バカらしくて中止になった。
永島 俺は一応対策はしたね。巌流島でやるってことはプロレスじゃなくて、〝野試合〟になるわけだから、こっちはマサを同席させたし。

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