田中角栄「名勝負物語」 第二番 福田赳夫(4) (1/3ページ)

週刊実話

 昭和47年(1972年)6月17日、佐藤栄作首相退陣声明をもって“開禁”されたことになる「角福総裁選」ではあったが、すでに田中角栄の水面下での動きは激しいものだった。5月9日夜の東京・柳橋の料亭「いな垣」での事実上の田中派旗揚げも、またその一つであった。筆者はのちに、当時の田中秘書だった早坂茂三(のちに政治評論家)から、迫真に満ちた模様を次のように聞いている。

 「その後の多数派工作をにらめば、核になる田中派としての“数”が問題だ。あの夜、私は『いな垣』の玄関隣にある帳場で部屋を暗くし、電話を前にして障子をほんの少し開け、入ってくる佐藤派衆参議員の名前をチェックした。議員が到着するたびに、目白の自宅にいるオヤジに電話で名前を報告する。オヤジは向こうで佐藤派議員の名簿を前に、私の報告した名前に赤エンピツで○印を付けている。最後の議員の名前を告げると、オヤジは言ったナ。『ご苦労だった。よし、予定通りだ』と。集まったのは81人だった。佐藤派は102人だったことから、福田支持は21人と読み切った」

 この「いな垣」の謀議を、福田自身は知るよしもなかったのだった。
 しかし、正式に退陣声明を出す前のこうした露骨な動きを知れば、佐藤が烈火の如く怒ることのほか、どちらに付くか様子見の他派議員による田中自身への不信感に直結しかねない。ために、じつは「いな垣」の謀議は抜け道をつくっていた。田中の政治行動は、常にまず最善手を指し、次善の策、三善の策まで用意する、万全の策をほどこしていたのが特徴だった。田中のご意見番的存在だった木村武雄がこの集まりの旗を振った形とし、仮にこの謀議がバレても田中自身の意向ではなかったとしたのである。「いな垣」での予約は、木村武雄名だった。

 この木村は戦前は大陸浪人、その頃からチエ者で時に大ボラ、ラッパも吹くことから「元帥」の異名もあり、建設大臣などを歴任したいわば“大物議員”である。筆者は「角福総裁選」に決着がついたあと、この木村に自宅でインタビューをしている。一重の着物に兵児帯をぐるりと巻き、次のように大いに“自賛”したものだった。
「じつは不利だった総裁選で田中を勝たせることができたのは石原莞爾から学んだ戦略だったのだ。

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