病を治すという奇跡の水が湧き出るルルドの泉の治癒率と本当の奇跡 (3/3ページ)

心に残る家族葬

あまりの光景にたまりかねた人が「神様」に文句を言った。彼女がこれほど祈っているのになぜ神様は救ってくれないのかと。すると少女はそうではないと語った。神様を信じる心を持てたこと、神に祈りを捧げられるそのことが救いなのだと。

これで連想するのが親鸞(1173~1263)である。親鸞は「報恩感謝の念仏」を説いた。念仏は救いを求めてのものでない。念仏と出会い、念仏を信じ、念仏することそのものが救いであり、「すでに救われている」ことに感謝するものだという。親鸞は他の聖者によくある奇瑞や奇跡譚が存在しない。念仏することに比べれば、海が割れただの、病気が治癒しただのは小さいことだったのだ。

ベルナデッドにとっても奇跡とは病気が治るとか未来を予知するとか、そういうことではない。聖母に出会えたそのこと、神を信じ、神に祈ることできるそれ自体が奇跡だったのだ。

■今もルルドに息づく「奇跡」

筆者は以前、「神仏は自動販売機ではない」と述べ、純粋な本来の「祈り」を捧げる希少な場として、死者の為に祈る葬儀の場を挙げた。

近現代における「祈り」はご利益の等価交換の手段である。そうした中で神を信じ、祈ることのできる少女には確かに奇跡が起きていた。筆者が読んだ本の少女はベルナデッドの話だったのかもしれない。

ルルドに行けば医学を超えた現象による治癒は期待できるだろう。しかしそうした結果が出なくても、純粋に神に祈りを捧げた時間は残る。それはベルナデッドと同じ「奇跡」の体現に他ならない。そんな奇跡を求めて今日も迷える子羊はルルドを目指す。そしてルルドの聖母と、ルルドから少し離れた修道院に美しい姿を保っち、祈りながら眠っているベルナデッドが彼らを温かく迎える。

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